2:平和な日々

 今でこそセミナーで大人数の前で話したり、1日に何人も人と会ったりしていますので、お客さんには社交的なように見られることが多いですが、最初からそうだったわけではありません。子どもの頃はいじめられっ子で引きこもりの、ゲームばかりやっているオタクのような人間でした。

 1991年の11月、宮城県仙台市。私は黒澤家の長男に生まれます。

 一人っ子で両親の愛情を一身に受け、親戚にも可愛がられ、甘やかされて育ちました。とても「いい子」で、何か欲しいとダダをこねることもなく、ますます可愛がられました。欲しいものを我慢していたのではなく、その頃は本当に物欲がゼロだったのです。

 出生時は3600グラムの健康体でしたが、3歳で小児ぜんそくにかかります。発作が起きると息が苦しくなるという呼吸器系の病気です。発作を抑える薬を一日に20錠飲むほど重度のぜんそくで、たいへん病弱でした。1年に20回は体を壊し、そのうち1回は入院することになります。

 何の自慢にもなりませんが、私は合計7回の入院を経験しています。病院では折り紙をするのが好きで、一人で色々な作品を作ることに熱中していました。また、お見舞いに親戚からおもちゃ屋さんで売っているようなマジック(手品)のネタをもらい、その仕組みが面白くて夢中で練習していました。後で家族や親戚にそのマジックを見せたら、とても喜んでくれたのが印象に残っています。他にも一人で空想をしたり、抽象画のようなワケの分からない絵を描いたりするのが好きな子どもでした。

 父は怒ると怖い人でした。この人に逆らったら終わりだ、という感じがしていました。マナーやしつけに厳しく、私がようやく箸を持ち始めたころに、うどんを箸で食べる訓練を何時間もかかってさせられたのを覚えています。ネギの一切れも残さず拾わなければ、延々と終わらないのでした。

 また父は非常に教育熱心でもあり、塾や英会話、ピアノ、水泳などの習い事に毎日のように通わせられていました。今思うと、当時の私は自分では何も考えずに親に従っていただけなのだと思います。黒澤家は代々高学歴の家系で、親戚は有名大学を出ている人ばかりでした。父も有名大学を出ており、新聞社で働いていました。そんな優秀な長男の一人息子とくれば周囲の期待も膨らみます。父方の祖父母からは、「しっかり教育しなさい」と母に相当なプレッシャーがあったようです。将来は良い大学に行き、いい会社に入るようにと育てられ、私も最初は素直に勉強していました。しかし一向に頭は良くなりません。

 父の部屋には分厚い本がずらりと並び、私にも「本を読め」といつも言っていました。それなのに私は全く本を読まなかったのが不思議です。父は、テレビのニュースを見ては子どもの私に「なんでこうなるんだと思う?」と問いかけてきたり、テレビに出てくる政治家をバッサリと批判したりしていました。

 青森のねぶた祭りを見に行ったときには、ハネトというピョンピョン跳ねるような踊りをやっていたのですが、それを見た父が「人はどうして跳ねるのか?」と、まるで哲学者のように大真面目に言いました。私はただ面白がって笑っていました。またあるとき、私が漫画『ONE PIECE』を読んでいると、父は「悪魔の実のおかげで強くなるなんて、本人の実力じゃないじゃないか。あまり好きになれないな」と言うのです。子どもながらに「そういう考え方もあるんだな」と思いました。

 物事を深く考えることは、そんな風に父の姿から学んでいきました。父のおかげで、メディアを疑うことや普通と逆を考えることなど、少しひねくれた物の見方が自然と身に付きました。同時に、自分の意見をストレートに言いすぎる性格も父親から受け継いでいきます。

 母は、明るい人でした。転勤族の父が秋田に住んでいた時にプロポーズし、一緒に仙台に移り住んだと聞いています。結婚したのは母が若干20歳のときで、父とは10も歳が離れていました。厳格な父とは対照的に、陽気で、おおらかで、冗談ばかり言い、何でも「いいんじゃない?」と言うような人です。マンションのベランダで花や観葉植物をたくさん育て、家の中もいつお客さんが来ても良いぐらい整っていました。料理も上手で、よく父親が連れてきた同僚に手料理を振る舞っていました。家族を明るくして家事も出来る、主婦として完璧なスキルの持ち主だったと思います。

 もう一人、両親以外で私に大きな影響を与えた人物がいます。それが伯父。母親のお兄さんです。伯父は秋田の祖母の家に一緒に住んでいて、帰省するたびにいろいろ遊びを教えてくれました。何をやっていたかというと、パソコンです。当時はまだパソコンがまともにインターネットとかに繋がらなくて、容量も100メガバイトしか入らない。フロッピーディスクの時代です。伯父も私もそういうのをいじっているのが楽しくて、色々やっていました。初代スカイプが始まった時には、「親戚の人とスカイプをしよう」と言ってカメラを買い、頑張って通話までやってみたり、ホームページを作ってみたりもしていました。まだビルダーなどは無く、HTMLは全部手打ちでした。

 あるときは、伯父と自作の映画を作ろうという話になります。秋田の自然のあるところにあちこち出かけて行って、ビデオカメラで撮影しました。林の中の木漏れ日や、キラキラと透明な水の光る川、こんもりと遠くまで続く緑の山々といった、秋田の美しい風景を私は夢中でビデオカメラに収めます。それらをパソコンで編集したら、なかなかのドキュメンタリーになりまして、親戚を集めて上映会をしました。

 パソコン遊び以外にも、普通のキャッチボールなんかもしてもらいました。家の屋根に上って花火をバーッと落として「ナイアガラだー」なんて危ないこともやりました。普段は勉強と習い事ばかりだった私は、面白い伯父の元で「ああ、こういう楽しいことやってもいいんだな」と、良い意味で常識から外れることを学んでいたのだと思います。この伯父のことは、もう一人の父親のように慕い、今でも尊敬しています。

 小学校の先生も、とてもいい人でした。のんびりした田舎の学校で、裏山には友達と作った秘密基地がありました。私は病弱だったので激しい運動はできませんでしたが、友達も比較的インドアなタイプだったようです。皆で秘密基地にマンガやゲームを持ち寄り、学校が終わってから塾に行くまでの時間を過ごしたものでした。

 そんなわけで、小さいころは病気こそありましたが、家族や親戚に愛され、学校でも特に問題はなく平和で温かな日々として思い出されます。