3:家庭崩壊と闇

 ところが小学4年生の時、両親の離婚を機に私の人生は真っ暗闇に転落します。

 離婚騒動が起こった当時は子どもでしたから、何が起こっているのか分かりません。ただ、母が大切に世話していたベランダの花々が、一本残らず茶色く枯れていた光景が強烈なイメージとして残っています。水をやるのも忘れるほど、母は不安定だったのでしょう。太陽のように朗らかだった母の顔は青白くなっていました。母が私のぜんそくの薬を6錠も誤って飲んでしまったこともあります。その様子を目の前で見ていながら、私は声を掛けることすらできずに固まっていました。暗くぼんやりとしている母の姿が恐ろしく、どうしてしまったのだろう、と不安でした。大人になってから知ったところによると、離婚はどうやら父親の浮気が原因であったようですが、本当のところは分かりません。

 その頃を思い出そうとしても、記憶がおかしくなっています。何か身を守るために思考と感情が鈍くなっていたのでしょうか。自分ではほとんど覚えていないのですが、夢遊病のように寝ながらピストルのおもちゃで遊んでいたようです。しまいには、意識が分離しました。自分の目線ではなく、第三者目線で頭上から自分を眺めているようなフワフワとした感覚になり、それは今でも続いています。

 いよいよ離婚が決まり、私は母方に付いて黒澤家を出て同じ仙台市内の小さなアパートに移り住みます。小学校を転校した瞬間、壮絶ないじめが始まりました。ひょろっとして弱そうなくせに、思ったことをポロッと言ってしまう父親譲りの性格が災いし、私は「調子に乗ったやつ」として格好の標的になりました。

 まず、病弱で今よりももっと痩せていた体形を「ホネ」「ガイコツ」などとからかわれます。運動もまるで出来なかったので、体育の時間は最悪でした。私が何かやる番になると、皆がクスクスと笑い、どこかから「キモっ」という声が聞こえてきます。他の教科で先生に当てられるのも恐怖でした。何か少しでも変なことを言うと、からかいの対象になります。何もミスがなくても、教科書に動物の骨格とか、戦時中でみんなガリガリに痩せていた、なんて話が出てくると、もう、それで当分の間いじられます。

 授業中はそれでもまだましで、休み時間のチャイムが恐怖でした。動けば「キモイ」と言われ、マネをされてはやし立てられたりするので、席に真顔で座ったまま固まって微動だにできませんでした。それすらも面白かったようで、遠巻きに笑われます。昼休みも弁当の中身をネタにいじられるので、隠すようにコソコソと食べるようになりました。

 からかいに耐えていると、今度は無視が始まりました。私は完全に「いない人」として扱われます。グループを作るときにはどこにも入れず、余ってしまうのでした。小学校では、それが永遠に続きました。

 母は私を養うために水商売を始めており、私の面倒を見ている暇はなくなっていました。家に帰っても一人で、兄弟もなく、いじめのことは誰にも相談できません。食事は何か適当に買って食べるように、と母がお金を置いて出かけます。毎日、カップ麺やコンビニの弁当を食べて、アニメを見るかマンガを読むという生活です。当然ながら、健康状態は悪化しました。そのぜんそくの恐怖にも一人で対処するほかありません。息ができなくて何度も死ぬような思いをしました。また、家にお金が無かったのか、よく取り立ての人が来てドアのピンポンを鳴らすのも恐ろしく、息をひそめて居留守を使っていました。

 ある大雨の夜中、ものすごい音で目が覚めると、母がアパートの外で倒れていました。酔っぱらって外階段を踏み外し、転げ落ちていたのです。地面に伏せたままワインを吐いていました。最初それが血に見えて驚きました。

 私が駆け寄って「何やってるんだよ」というと「お父さんみたいなこと言わないでよ!」と泣き叫びます。母は、思ったことをストレートに言うようになった私を見て、父の姿と重ねているようでした。今思えば、母は若い時に私を生んでいますから、この頃30代の前半です。離婚して精神的に参るのは無理のないことですし、水商売でストレスも溜まるでしょう。そのストレスの捌け口が私しかいなかったのかもしれません。

 少し前までは誰もに愛されてすくすくと育ってきた私にとって、新しい生活との落差は大きく感じられました。学校ではいじめられ、家に帰っても一人ぼっち。可愛がられるのが当たり前だったので、新しい生活は想像を絶する不幸でした。大人になってからも色々ありましたが、人生の一番の闇はこの頃だったように思います。子どもの自分には解決することも、逃げることも、どうすることもできませんでした。

 そうして一人で家に引きこもっていたおかげか、この頃からパソコンがものすごく出来るようになります。インターネットのゲームに熱中し、自分でそのゲームの攻略サイトを作り、かなり多くの人をサイトに集めるなどしていました。小さい頃に好きだった折り紙や、絵や何かを作ることの道具が、パソコンに取って代わりました。パソコンの前に座っているときだけが、ほっと息をつける時間でした。

 中学校に上がっても顔ぶれは小学校とほとんど変わらず、いじめも継続しました。その頃には、もう無視されるのが当たり前で何も感じなくなっていました。視力が低下したので眼鏡をかけるようになり、前髪も長く、体からは生ゴミのような匂いがして、いかにもいじめられっ子というような暗い雰囲気を出していました。感情のスイッチの切り方を覚えていたように思います。しかしそれは抑圧していただけで、家に帰ると感情が爆発しました。

 中学生の私は、母に反抗するようになります。私を養うために水商売で忙しく働く母に対して「なんでそんな仕事やってるの」とか「なんで家事しないの」とぶつかります。母は「そんなこと自分で出来るようになりなさい!」と言い返し、激しい争いになりました。お互い物を投げたり、私がアパートのガラス戸を殴って割り血だらけになったり、母から包丁が飛んで来たりと、全面戦争でした。家はゴミ屋敷になり、壁には小さな虫が常に40匹くらいくっついたりしていました。

 そんな状況でも死のうという発想はありませんでした。おそらく、気が弱かったのと、「自分がなんとかしなければ」と気を張っていたからだと思います。母親と戦ってはいたけれど、「自分が精神を強く保っていなければ終わるぞ」という思いがありました。

 父親ともときどき会っていましたが、いじめや家での色々な問題については、とても公開できませんでした。父の心配事は、何を置いても私の勉強のことでした。離れて暮らしてもなお、良い高校、良い大学へという期待は消えません。勉強するようにと、塾に行かせるためのお金を母に送って寄越し、私には会うたびに「勉強はどうだ?」と圧力を掛けてきました。私は学校の勉強がまるでダメでしたが、「うん、勉強、してるしてる」と適当に誤魔化していました。それは洗脳に近いほどの強い影響でした。勉強していい学校に進んで、いい会社に入るんだぞ、と。

 家でも学校のクラスでも居場所がない私にとって唯一、心のオアシスと言えた場所がパソコン部でした。小学生の頃から既にホームページを作ったりする技術があったので、中学1年生でいきなり部長に抜擢されます。2年、3年生の先輩もいましたが、ここではいじめられませんでした。みんなそれぞれパソコンに向かってカタカタやっていて、たまに話すぐらいです。パソコン部の友達の影響で2ちゃんねるの掲示板やチャット、ニコニコ動画などを覚えます。初期のネット文化に中学生ながら参入した格好です。

 小学生で興味を持ち始めたマジックにも、この頃、ますます関心が深まります。本を読んだり、鏡に向かって練習したりしてかなり技術が上達しますが、学校ではマジックを見せる友達がいません。そこでふと思い立って、ニコニコ生放送(素人がインターネットで自分の番組を生放送出来るサービス)で得意のマジックを披露してみました。そうしたら、マジック生放送のランキングで一気にトップクラスに駆け上がってしまいます。「人気者になった」と面白がって続けていたら、生放送は同時に1,000人が視聴し、ファンによるサイトが自然と作られるなど、ネット上ではちょっとした有名人になりました。

 そんなわけで、勉強も運動もできなかったいじめられっ子の私が能力を発揮できた数少ない場所が、パソコンとネットの世界だったのです。マジックの世界には心惹かれつつも、あくまで趣味の領域を出ず、それでは食べていけないと思っていました。父親の影響を受けて、普通に大学に行き、就職をするという道しか考えられなかったのです。

 高校受験が近づくにつれて父親からの「勉強しろ連絡」は頻度が上がり、勉強はかなり頑張りました。出来ないなりに塾に通い、どうにか学区で2番の進学校に手が届くところまで持っていきます。ところが受験当日、運悪くインフルエンザにかかってしまいます。別室受験で薬を飲みながらフラフラしながら奮闘するも、失敗。まさかの滑り止めの滑り止めで受けた高校に進学することになります。