4:青春

 高校進学で人間関係はリセットされます。高校デビューではないけれども、いじめだけはないようにしよう。そう意気込んで行ったものの、期待は良い意味で裏切られることになりました。受験の大失敗が思わぬ良い結果になるのです。

 私は、入学式で仲良くなった友達と一緒にテニス部に入ります。ぜんそくが少し良くなっていたのと、テニスは少しだけ父親とやっていたからです。ここから人間関係がオープンになり、いろんな人と関わるようになっていきます。普通の友達とか、普通の部活の上下関係だとか、今までいじめられてほとんど人と関わったことのなかった私にはとても新鮮でした。

 高校では入ったコースが1クラスしかなく、3年間メンバーは一緒です。クラスメートは全員個性があり、いじめなどは一切なし。どの先生も「奇跡のクラスだ」とびっくりするほどでした。グループや派閥のようなものも無く、皆仲がよくて、皆面白いキャラクターです。まるで青春映画を地で行くような日々でした。

 バカなこともやりました。誰かが「よし物理の実験だ」と言い出して、皆で校舎の3階からプッチンプリンを落として、下の人が食べるのにチャレンジしたことがあります。風向きの計算が間違っていたようで、軌道は見事にずれ、結局1個もキャッチできずに中庭をプリンまみれにして怒られます。あとは、夜の22時ぐらいまで教室に残っていたらSECOMのセキュリティを反応させてしまい、警備の人が来てダッシュで逃げたこともあります。次の日に先生が「昨晩、不審者が出たので注意してくださいね」と言うので、クラスの皆でニヤニヤしていました。

 部活はバリバリの運動部でしたから、上下関係のキツさはそれなりにありました。副顧問の先生はスキンヘッドで怖い人だったのですが、冬になると体温と気温の温度差でその頭から湯気が出ます。練習後の反省会は、そのゆでダコのような頭を見ながら笑ってはいけないという我慢大会でした。

 先輩もいい人たちで、キャラが濃かったです。急に「隕石、隕石!」とか言って、テニスボールをボンボンと打ち上げる。練習中に、上からボールが降ってくるわけです。そんな面白い先輩ばかりでした。クラスメートも面白かったのですが、テニス部も面白い人の集まりでした。なお、私の腕前はというと、体力のなさをテクニックでカバーする小賢しいプレーで、東北大会まで出場しました。初戦敗退でしたが。

 そんな明るい高校生活にも、多少のいざこざはありました。それまでいじめられて、まともに人と関わってこなかったせいで、運動部の上下関係というものが私にはサッパリ分かりません。普通はあり得ないと思いますが、先輩の言うことを聞かなかったのです。「やりたくありません」「そんなことして人生に何の意味があるんですか」などと言ってしまう、おそろしく生意気な1年生でした。今自分の講座で話しているようなことを、既にこの頃から言っていたのです。当然ですが、誰にも共感されず、理解されません。運動部ですから、それはボコボコにされます。それでも性格は直りませんでした。

 学校の先生にも文句のようなことを言っていました。何かのときに担任の先生と言い争いになり、「先生もこんなことやりたくてやってるんじゃないのよ」などと言われ、「じゃあ先生辞めればいいじゃん」と返して泣かせてしまったことがあります。どうも思ったことをストレートに言ってしまうので、突き刺さるのです。今ならば、相手との関係性の中で言葉を考えますが、当時はそういうスキルが無く、力が暴走していたように思います。それでも先生も友達もみんないい人で、高校生活は全体的に明るく楽しい思い出となりました。

 学校生活は良くなるものの、親との冷戦は続いていました。高校受験を失敗すると、父親はすぐさま大学受験へとプレッシャーをかけてきました。どうやら息子はバカらしい、と薄々は分かってきたようで、「何でお前はそんなにバカなんだ」と何度も言うようになります。それでも、まだ勉強をと発破をかけられます。高校受験のときよりも、その回数は格段に上がっていました。

 それで、私も大学受験は本気でやろうと思います。高校1、2年はテニス部一色で、家ではアニメを見てパソコンをいじるという日々でしたが、3年になってからは早々に部活を引退し、毎日に仙台駅裏の塾に通いました。学校の授業では受験に対応できません。学校をサボってでも塾に行くという超受験モードで、必死で勉強しました。やはり父の影響は大きく、良い大学に行かなければ人生が終わると信じていました。母親のように苦労をしたくない、という思いもあったと思います。

 しかし、努力の方向性が間違っていたようです。そこそこの国立大学を目指したものの、奮闘むなしく受験は無残に失敗します。言い訳をさせていただくと、私はどちらかというと右脳タイプなのです。右脳型はイメージが得意な代わりに、細かいことをロジカルに覚えるような受験勉強には向きません。本質は記憶していても固有名詞は記憶できなかったのです。因みに今でも記憶は苦手です。そのようなわけで、またも滑り止めの滑り止めの、そのまた滑り止めのような大学に、どうにか引っかかるかたちになりました。

 父親からは「そんなバカな大学に行くぐらいなら浪人しろ!」と言われますが、自分としては勉強は全力でやりきったつもりでした。それでもダメだったんだからもう違うんだ、無理なんだと。これ以上時間をかけても、勉強に向いていないんだから限界がある、と父を説得し、その大学に入るための学費を出してもらいました。

 しかし、自分でも「大学に行く意味があるのだろうか」と疑問に感じ、私は遊び始めます。それでも、高校から比較的遊んでいましたから、遊びの楽しさにも飽きてしまいます。それで、今度はアルバイトを始めました。自分の道は勉強ではなく社会に出る方なのではないか。そんなおぼろげな気持ちからでした。

 最初に働いたのはマジック・バーです。マジックは中学時代から「ニコニコ生放送」で鍛え、技術もパフォーマンスも十分ついてきていました。そこで、仙台にマジック・バーがあるのを見つけ、出演させてもらう代わりに色々手伝いを始めます。その頃、大学生が出していた「イケメン手帳」というフリーペーパーに「イケメン大学生マジシャン」として掲載されます。この頃には私のオタクっぽい見た目が改善され、眼鏡はコンタクトになり、髪の色は明るい茶色になっていたのです。「イケメン手帳」はコンビニなどで何万部も配られ、今度は仙台の繁華街界隈でもちょっとした有名人になり、お客さんからも可愛がられました。

 そして、やはり自信たっぷりで調子に乗ったように見られる生意気な性格でしたから、マジック・バーでも店長に怒られたり、先輩にボコボコに言われたりしながら働きます。「飲食店でお金が稼げるんだ、社会はこんなものか」と何となく小馬鹿にしたように思ってひねくれていました。気づくと、なりたくない親のようになっているから不思議です。

 マジック・バーの店長は他にも事業をいろいろやっている人で、ある日「お前は普通の自分を進んでいたらダメだ。本を読め」と言われます。自分でビジネスをやる道もあるんだと。私はそれまで全く本を読まないで生きてきましたから、本を読むという行為自体が意味不明です。「なんで本を読まなきゃいけないの?」という感じでした。

 嫌々ながらも、「まあ仕方がないか」と、当時仙台駅前のイービーンズの上にあったジュンク堂書店に行き、自己啓発のコーナーでナポレオン・ヒルの『成功哲学』という本を買い、読み始めました。

 ナポレオン・ヒルは、いろいろな有名人に会ってインタビューをした人です。その人の本を読んでいくうちに、それまで私が小学生の頃から頭の中で考えていたことが書かれていることに気づきます。周りの人に言っても「何を言っているんだ」と共感されなかったのに、その本には私が思っていたようなことが書いてありました。「お、これは」と思い、毎日読みました。いつも持ち歩き、夜は枕の横にある、というように。何度も読んでいたら、だんだん意識が変わっていきました。