5:普通の道を捨てる

 2011年3月。1年で大学に飽きた私は、バイトでもしながらマジックを極めて行こうという軽い気持ちで「大学辞めて、もう働く」と、離れて暮らしながら学費の援助をしてくれていた父に電話をしました。

 なぜそんなことになったかというと、私はナポレオン・ヒルの『成功哲学』に感化され、頭が沸いていたためです。もう一つには、母親は「働いちゃえば?」とノリノリで、仕事先で知り合ったマジック好きの社長さんに会わせてくれたりしていたこともあります。気づくと父親が敷こうとしていた成功のレールから外れていたのです。

 当然、父とは大もめしまして、最後には「そうか、わかった。お前がその道を行くのであれば、金輪際、黒澤家とは関わるな!」と言われました。つまり、「お前が自分の道を行くのであれば関わらないが、言うことを聞き大学に行き続けるのであれば支援する」ということです。父は私を良いほうに育てたかったのでしょう。バカな息子でも、ちゃんと大学を出て、いい会社に入って欲しいという希望がまだ残っていたのだと思います。

 今考えるとそれは愛だったのだと思いますが、当時の私は気づかないで自分の思うように生きようと思いました。私は「わかった、僕は絶縁してでも自分の道を行く」と言って、一人で生きていくことを決断しました。その数日後、タイミング悪くあの日がやってきました。

 2011年3月11日、東日本大震災。

 震災の日、父親からは連絡がありませんでした。私は、「これは本気で親子の縁を切るつもりだな」と思いました。そうは言っても親ですから、「大丈夫か」とメールが来るぐらいは少し期待してしまったわけです。ところが、本当に来ませんでした。いよいよ一人になり、「さあ、やるしかないぞ」と思いました。

 新たな門出は、散々でした。地震でアパートが壊れてしまったため、近所の小学校に避難しますが、その避難所で風邪を移されて4日間高熱に苦しみました。母親は私と同じようにフラフラしていてどこに居るか分かりません。新しく住む場所も見つからず、秋田県の伯父宅に身を寄せることになります。当時、少し辛く感じたことは、付き合い始めたばかりの彼女がいたのですが、いきなり遠距離になってしまったことです。

 秋田に行っても、当時は知識も何もありませんから「生きるため」には働く以外にありませんでした。フリーター時代の始まりです。私は、秋田の居酒屋でバイトを始めました。今の私を知っている人からすると考えられないかもしれませんが、ダシ巻き卵を作ったり、焼き鳥の仕込みをしたりしていました。このとき、同級生は大学2年生です。みんなが大学で学んでいるときに、私はダシ巻き卵を作っていたのです。ただ「なんとなく稼いで、なんとなく食べていければいいや」というだけでした。

 その居酒屋でも、私は超のつく生意気を発揮していました。たとえば手羽先のカラ揚げを運んでいて落としてしまったとき、「すみません、手羽先が落ちました」と言うわけです。店長は「いや、落ちたんじゃないだろ。お前が落としたんだろ!」と怒りますが、私は「なんで怒鳴ってるんだろう。すぐに感情を出すなんておかしい」という感じで真顔で無視しているという有様でした。

 当時の私ともなると自分が生意気だということにようやく気付いていましたが、どうすればいいか分かりませんでした。人の言うことに従うだけの人生も変。とはいえ1人では生きていけない。そのモヤモヤの中で、当時の私は生意気な態度をとることしか出来ませんでした。自分でも自分の性格が嫌いでした。

 伯父宅からその居酒屋までは、川沿いの道を通ります。せせらぎの音を聞きながら、気持よく自転車を走らせて景色を眺めました。3月に転がり込んだ時はまだ枝だった桜並木が花を咲かせ、花の散った後には若葉が芽吹き、青々と茂っていきます。遠くの山々は雪解けで模様を変え、真っ黒だった水田は、緑のじゅうたんに変わります。深呼吸をすると心地よい空気が体に入ってきます。成り行きだけれども、幼少時代の心のオアシスだった大好きな秋田の自然の中で暮らし、バイトでそれなりに食べて行けます。頼れる伯父は不動産を持っていて、アパートの部屋を安く貸してくれるとまで言ってくれます。「ずっとここに居ようかなあ」と思ってしまうほど、私にとって秋田というのは天国のような、竜宮城のような所でした。彼女と月1回しか会えないことを除けば。

 バイト先の居酒屋でまかないを食べているとき、厳しい店長がふと優しい顔つきで「お前はここにいるような人間じゃない」と言ったことを覚えています。なぜかその言葉が心に刺さり、ハッキリと覚えているのです。店長は私のマジックも見ていましたから、何かを感じてポジティブな意味で言ったのでしょう。それを私は「なるほど、自分の居場所は居酒屋じゃなくて、もう少しオシャレな店なんだな」と、おそらくズレて受け取ります。今振り返ると、そういう意味ではなかったように思います。

 勘違いした私は、彼女の待つ仙台に戻り一人暮らしを始めます。行動力だけはあったようです。

 今度のバイト先は、仙台の繁華街、国分町のイタリアンのお店です。居酒屋からおしゃれなダイニングバーにレベルアップしました。このときはとにかく働いていました。夕方の5時から朝の5時まで店に出て、休みは月に2日。それで手取りが22〜23万円でした。12時間働いても、タイムカードには8時間しか記録されていません。「何でこんなに大変なんだ!」と、労働の限界を感じました。

 彼女にもやっとたくさん会えると思ったのに、遠距離だからお互い燃えていたのか、私が精神的に未熟だったのか、なぜか1か月ほどで別れてしまいます。ほとんど彼女のために竜宮城のような秋田から震災の余震がつづく仙台に戻ってきたのに不思議です。しかし今考えてみると、この最初の彼女がいなければ私が仙台に戻ってくることもなかったので、何がどうなるかわからないと思います。小さなことが未来を大きく変えるという神秘を感じないではいられません。

 ダイニングバーの仕事はものすごくできました。当時はずっと飲食店で働いていこうと思って、本を読んだりして経営の勉強をしていました。他の外食チェーンの研究をし、他の店舗を分析してレポートを出したりしていました。先輩や店長クラスでも全く勉強していないので、「なんでこんなことも分からないんだ」とか、「偉そうに命令しやがって」と、またどこかで違和感を感じていました。

 出来る人間ということで私は社長からは可愛がられていましたが、現場の人間関係に馴染めませんでした。たとえば飲み会の作法があります。普通は偉い人や先輩にお酌しますが、私はそういう常識みたいなものに合わせるのが嫌で一切しませんでした。ある飲み会で、全店舗の統括が前に座っていまして、先輩が隣で「お前注げよ」と言います。私は注がずに、真顔で無視します。先輩は怒りますが、統括は先輩を止め「お前な、ちゃんとやればどこに行っても学ぶことはあるんだぞ」と私に諭してきました。私はどうしても合わせることが出来なかったのです。「こんな飲み会なんて時間の無駄だ」とすら思っていました。

 そうしてダイニングバーで働いていたある日、怪しい黒いスーツをきた男三人組が店にやってきます。「怖いなあ」と思っていると、「君、ウチにこないか?」と言われます。要は、ヘッドハンティングです。連れて行かれたのは高級クラブやバー、日本料亭などを経営する大きな会社で、私は役職付きで入社することになりました。21歳、会社員時代の始まりです。

 最初の仕事はバーテンダーでした。オーセンティックバーと言って、一杯千円にチャージ千円というようなちゃんとしたところです。そこに今でも尊敬するバーテンダーがいます。

 全国の賞をいくつも取っている有名な人なのですが、その人からシェイカーの振り方を教わりました。ホワイトレディというカクテルを習ったときのことです。「いいか、まずは何も考えずに振ってみろ」と言われ、はあ、と言ってバーッと振るわけですね。次に、「ゼン、お前、今度はホワイトレディを想像してみろ。美しい白い女性、お前の中にあるホワイトレディをイメージしながらやるんだ」と言います。振る回数は同じでも、そうやって見立ててやると何かが微妙に変わるんですね。実際、振っているのを見ていない第三者に飲ませても、イメージして作ったほうが美味しいと言うのです。それで「センスあるな」と言われました。自分でも「バーテンダー向いてるんじゃないかな」と思い始め、お酒の深さにのめり込んでゆきます。

 このバーには高級クラブが併設されていて、途中から黒服に部署移動になりました。単価が2~3万円とか、高いときには30万円とか行くような、仙台では有数の高級クラブです。

 ここでも、面白い話がたくさんありました。あるときは、誰もが知っているような企業の会長さんが来て、「桜を咲かせていこう」と言って、花瓶に1万円札を植えて帰っていきました。あとは、ドンペリという高額のシャンパンをテーブルに並べる人もいました。今思えばワケが分かりませんが、当時の経験も今に生きているように思います。会長さんや社長さんから経営哲学や成功ストーリーを聞くうちに、私は『成功哲学』は間違いない、と確信を持つようになったのです。