STORY 黒澤物語 『本当の自分を探す旅』

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まえがき

 自由でいたい。好きなことを仕事にしたい。それを追い求めて生きていました。しかし、これだと思って極めようとするたびに、すぐに飽きては放り出すことの繰り返しでした。「本当の自分」が求める自由と幸せ、そして人生のテーマを見つけられたのは、最近のことです。

 このストーリーは、私が人生の中でそうして何度も失敗し、人生のクライシス(崩壊)を抜け出して真実に気づき始めるまでのストーリーを記したものです。自由を求める人が、この物語の中から一つでも二つでも役に立つヒントを見つけてくだされば幸いです。

 ですから私の話にも、あなたの人生とどこか重なる部分や、これは同じパターンだと思われる部分が必ず見つかるはずです。あなた自身のストーリーと照らし合わせて「自分ならどうするだろう?」と考えながら読んでいただけると気づきがあると思います。

 ですから私の話にも、あなたの人生とどこか重なる部分や、これは同じパターンだと思われる部分が必ず見つかるはずです。あなた自身のストーリーと照らし合わせて「自分ならどうするだろう?」と考えながら読んでいただけると気づきがあると思います。

 今の仕事や収入に不満のある方や、生活のために職場の嫌な人間関係に耐えている方には、「自分でお金を生み出し自由になる方法」としてお役に立つでしょう。お金に困らず好きなことが出来ているのにどこか満たされないという方は、「次のステップに進み、本当に充実した人生を送るための方法」として参考になるかと思います。

 あなたの「本当の自分を探す旅」のガイドブックにしていただけたら嬉しいです。

平和な日々

 今でこそセミナーで大人数の前で話したり、1日に何人も人と会ったりしていますので、お客さんには社交的なように見られることが多いですが、最初からそうだったわけではありません。子どもの頃はいじめられっ子で引きこもりの、ゲームばかりやっているオタクのような人間でした。

 1991年の11月、宮城県仙台市。私は黒澤家の長男に生まれます。

 一人っ子で両親の愛情を一身に受け、親戚にも可愛がられ、甘やかされて育ちました。とても「いい子」で、何か欲しいとダダをこねることもなく、ますます可愛がられました。欲しいものを我慢していたのではなく、その頃は本当に物欲がゼロだったのです。

 出生時は3600グラムの健康体でしたが、3歳で小児ぜんそくにかかります。発作が起きると息が苦しくなるという呼吸器系の病気です。発作を抑える薬を一日に20錠飲むほど重度のぜんそくで、たいへん病弱でした。1年に20回は体を壊し、そのうち1回は入院することになります。

 何の自慢にもなりませんが、私は合計7回の入院を経験しています。病院では折り紙をするのが好きで、一人で色々な作品を作ることに熱中していました。また、お見舞いに親戚からおもちゃ屋さんで売っているようなマジック(手品)のネタをもらい、その仕組みが面白くて夢中で練習していました。後で家族や親戚にそのマジックを見せたら、とても喜んでくれたのが印象に残っています。他にも一人で空想をしたり、抽象画のようなワケの分からない絵を描いたりするのが好きな子どもでした。

 父は怒ると怖い人でした。この人に逆らったら終わりだ、という感じがしていました。マナーやしつけに厳しく、私がようやく箸を持ち始めたころに、うどんを箸で食べる訓練を何時間もかかってさせられたのを覚えています。ネギの一切れも残さず拾わなければ、延々と終わらないのでした。

 また父は非常に教育熱心でもあり、塾や英会話、ピアノ、水泳などの習い事に毎日のように通わせられていました。今思うと、当時の私は自分では何も考えずに親に従っていただけなのだと思います。黒澤家は代々高学歴の家系で、親戚は有名大学を出ている人ばかりでした。父も有名大学を出ており、新聞社で働いていました。そんな優秀な長男の一人息子とくれば周囲の期待も膨らみます。父方の祖父母からは、「しっかり教育しなさい」と母に相当なプレッシャーがあったようです。将来は良い大学に行き、いい会社に入るようにと育てられ、私も最初は素直に勉強していました。しかし一向に頭は良くなりません。

 父の部屋には分厚い本がずらりと並び、私にも「本を読め」といつも言っていました。それなのに私は全く本を読まなかったのが不思議です。父は、テレビのニュースを見ては子どもの私に「なんでこうなるんだと思う?」と問いかけてきたり、テレビに出てくる政治家をバッサリと批判したりしていました。

 青森のねぶた祭りを見に行ったときには、ハネトというピョンピョン跳ねるような踊りをやっていたのですが、それを見た父が「人はどうして跳ねるのか?」と、まるで哲学者のように大真面目に言いました。私はただ面白がって笑っていました。またあるとき、私が漫画『ONE PIECE』を読んでいると、父は「悪魔の実のおかげで強くなるなんて、本人の実力じゃないじゃないか。あまり好きになれないな」と言うのです。子どもながらに「そういう考え方もあるんだな」と思いました。

 物事を深く考えることは、そんな風に父の姿から学んでいきました。父のおかげで、メディアを疑うことや普通と逆を考えることなど、少しひねくれた物の見方が自然と身に付きました。同時に、自分の意見をストレートに言いすぎる性格も父親から受け継いでいきます。

 母は、明るい人でした。転勤族の父が秋田に住んでいた時にプロポーズし、一緒に仙台に移り住んだと聞いています。結婚したのは母が若干20歳のときで、父とは10も歳が離れていました。厳格な父とは対照的に、陽気で、おおらかで、冗談ばかり言い、何でも「いいんじゃない?」と言うような人です。マンションのベランダで花や観葉植物をたくさん育て、家の中もいつお客さんが来ても良いぐらい整っていました。料理も上手で、よく父親が連れてきた同僚に手料理を振る舞っていました。家族を明るくして家事も出来る、主婦として完璧なスキルの持ち主だったと思います。

 もう一人、両親以外で私に大きな影響を与えた人物がいます。それが伯父。母親のお兄さんです。伯父は秋田の祖母の家に一緒に住んでいて、帰省するたびにいろいろ遊びを教えてくれました。何をやっていたかというと、パソコンです。当時はまだパソコンがまともにインターネットとかに繋がらなくて、容量も100メガバイトしか入らない。フロッピーディスクの時代です。伯父も私もそういうのをいじっているのが楽しくて、色々やっていました。初代スカイプが始まった時には、「親戚の人とスカイプをしよう」と言ってカメラを買い、頑張って通話までやってみたり、ホームページを作ってみたりもしていました。まだビルダーなどは無く、HTMLは全部手打ちでした。

 あるときは、伯父と自作の映画を作ろうという話になります。秋田の自然のあるところにあちこち出かけて行って、ビデオカメラで撮影しました。林の中の木漏れ日や、キラキラと透明な水の光る川、こんもりと遠くまで続く緑の山々といった、秋田の美しい風景を私は夢中でビデオカメラに収めます。それらをパソコンで編集したら、なかなかのドキュメンタリーになりまして、親戚を集めて上映会をしました。

 パソコン遊び以外にも、普通のキャッチボールなんかもしてもらいました。家の屋根に上って花火をバーッと落として「ナイアガラだー」なんて危ないこともやりました。普段は勉強と習い事ばかりだった私は、面白い伯父の元で「ああ、こういう楽しいことやってもいいんだな」と、良い意味で常識から外れることを学んでいたのだと思います。この伯父のことは、もう一人の父親のように慕い、今でも尊敬しています。

 小学校の先生も、とてもいい人でした。のんびりした田舎の学校で、裏山には友達と作った秘密基地がありました。私は病弱だったので激しい運動はできませんでしたが、友達も比較的インドアなタイプだったようです。皆で秘密基地にマンガやゲームを持ち寄り、学校が終わってから塾に行くまでの時間を過ごしたものでした。

 そんなわけで、小さいころは病気こそありましたが、家族や親戚に愛され、学校でも特に問題はなく平和で温かな日々として思い出されます。

家庭崩壊と闇

 ところが小学4年生の時、両親の離婚を機に私の人生は真っ暗闇に転落します。

 離婚騒動が起こった当時は子どもでしたから、何が起こっているのか分かりません。ただ、母が大切に世話していたベランダの花々が、一本残らず茶色く枯れていた光景が強烈なイメージとして残っています。水をやるのも忘れるほど、母は不安定だったのでしょう。太陽のように朗らかだった母の顔は青白くなっていました。母が私のぜんそくの薬を6錠も誤って飲んでしまったこともあります。その様子を目の前で見ていながら、私は声を掛けることすらできずに固まっていました。暗くぼんやりとしている母の姿が恐ろしく、どうしてしまったのだろう、と不安でした。大人になってから知ったところによると、離婚はどうやら父親の浮気が原因であったようですが、本当のところは分かりません。

 その頃を思い出そうとしても、記憶がおかしくなっています。何か身を守るために思考と感情が鈍くなっていたのでしょうか。自分ではほとんど覚えていないのですが、夢遊病のように寝ながらピストルのおもちゃで遊んでいたようです。しまいには、意識が分離しました。自分の目線ではなく、第三者目線で頭上から自分を眺めているようなフワフワとした感覚になり、それは今でも続いています。

 いよいよ離婚が決まり、私は母方に付いて黒澤家を出て同じ仙台市内の小さなアパートに移り住みます。小学校を転校した瞬間、壮絶ないじめが始まりました。ひょろっとして弱そうなくせに、思ったことをポロッと言ってしまう父親譲りの性格が災いし、私は「調子に乗ったやつ」として格好の標的になりました。

 まず、病弱で今よりももっと痩せていた体形を「ホネ」「ガイコツ」などとからかわれます。運動もまるで出来なかったので、体育の時間は最悪でした。私が何かやる番になると、皆がクスクスと笑い、どこかから「キモっ」という声が聞こえてきます。他の教科で先生に当てられるのも恐怖でした。何か少しでも変なことを言うと、からかいの対象になります。何もミスがなくても、教科書に動物の骨格とか、戦時中でみんなガリガリに痩せていた、なんて話が出てくると、もう、それで当分の間いじられます。

 授業中はそれでもまだましで、休み時間のチャイムが恐怖でした。動けば「キモイ」と言われ、マネをされてはやし立てられたりするので、席に真顔で座ったまま固まって微動だにできませんでした。それすらも面白かったようで、遠巻きに笑われます。昼休みも弁当の中身をネタにいじられるので、隠すようにコソコソと食べるようになりました。

 からかいに耐えていると、今度は無視が始まりました。私は完全に「いない人」として扱われます。グループを作るときにはどこにも入れず、余ってしまうのでした。小学校では、それが永遠に続きました。

 母は私を養うために水商売を始めており、私の面倒を見ている暇はなくなっていました。家に帰っても一人で、兄弟もなく、いじめのことは誰にも相談できません。食事は何か適当に買って食べるように、と母がお金を置いて出かけます。毎日、カップ麺やコンビニの弁当を食べて、アニメを見るかマンガを読むという生活です。当然ながら、健康状態は悪化しました。そのぜんそくの恐怖にも一人で対処するほかありません。息ができなくて何度も死ぬような思いをしました。また、家にお金が無かったのか、よく取り立ての人が来てドアのピンポンを鳴らすのも恐ろしく、息をひそめて居留守を使っていました。

 ある大雨の夜中、ものすごい音で目が覚めると、母がアパートの外で倒れていました。酔っぱらって外階段を踏み外し、転げ落ちていたのです。地面に伏せたままワインを吐いていました。最初それが血に見えて驚きました。

 私が駆け寄って「何やってるんだよ」というと「お父さんみたいなこと言わないでよ!」と泣き叫びます。母は、思ったことをストレートに言うようになった私を見て、父の姿と重ねているようでした。今思えば、母は若い時に私を生んでいますから、この頃30代の前半です。離婚して精神的に参るのは無理のないことですし、水商売でストレスも溜まるでしょう。そのストレスの捌け口が私しかいなかったのかもしれません。

 少し前までは誰もに愛されてすくすくと育ってきた私にとって、新しい生活との落差は大きく感じられました。学校ではいじめられ、家に帰っても一人ぼっち。可愛がられるのが当たり前だったので、新しい生活は想像を絶する不幸でした。大人になってからも色々ありましたが、人生の一番の闇はこの頃だったように思います。子どもの自分には解決することも、逃げることも、どうすることもできませんでした。

 そうして一人で家に引きこもっていたおかげか、この頃からパソコンがものすごく出来るようになります。インターネットのゲームに熱中し、自分でそのゲームの攻略サイトを作り、かなり多くの人をサイトに集めるなどしていました。小さい頃に好きだった折り紙や、絵や何かを作ることの道具が、パソコンに取って代わりました。パソコンの前に座っているときだけが、ほっと息をつける時間でした。

 中学校に上がっても顔ぶれは小学校とほとんど変わらず、いじめも継続しました。その頃には、もう無視されるのが当たり前で何も感じなくなっていました。視力が低下したので眼鏡をかけるようになり、前髪も長く、体からは生ゴミのような匂いがして、いかにもいじめられっ子というような暗い雰囲気を出していました。感情のスイッチの切り方を覚えていたように思います。しかしそれは抑圧していただけで、家に帰ると感情が爆発しました。

 中学生の私は、母に反抗するようになります。私を養うために水商売で忙しく働く母に対して「なんでそんな仕事やってるの」とか「なんで家事しないの」とぶつかります。母は「そんなこと自分で出来るようになりなさい!」と言い返し、激しい争いになりました。お互い物を投げたり、私がアパートのガラス戸を殴って割り血だらけになったり、母から包丁が飛んで来たりと、全面戦争でした。家はゴミ屋敷になり、壁には小さな虫が常に40匹くらいくっついたりしていました。

 そんな状況でも死のうという発想はありませんでした。おそらく、気が弱かったのと、「自分がなんとかしなければ」と気を張っていたからだと思います。母親と戦ってはいたけれど、「自分が精神を強く保っていなければ終わるぞ」という思いがありました。

 父親ともときどき会っていましたが、いじめや家での色々な問題については、とても公開できませんでした。父の心配事は、何を置いても私の勉強のことでした。離れて暮らしてもなお、良い高校、良い大学へという期待は消えません。勉強するようにと、塾に行かせるためのお金を母に送って寄越し、私には会うたびに「勉強はどうだ?」と圧力を掛けてきました。私は学校の勉強がまるでダメでしたが、「うん、勉強、してるしてる」と適当に誤魔化していました。それは洗脳に近いほどの強い影響でした。勉強していい学校に進んで、いい会社に入るんだぞ、と。

 家でも学校のクラスでも居場所がない私にとって唯一、心のオアシスと言えた場所がパソコン部でした。小学生の頃から既にホームページを作ったりする技術があったので、中学1年生でいきなり部長に抜擢されます。2年、3年生の先輩もいましたが、ここではいじめられませんでした。みんなそれぞれパソコンに向かってカタカタやっていて、たまに話すぐらいです。パソコン部の友達の影響で2ちゃんねるの掲示板やチャット、ニコニコ動画などを覚えます。初期のネット文化に中学生ながら参入した格好です。

 小学生で興味を持ち始めたマジックにも、この頃、ますます関心が深まります。本を読んだり、鏡に向かって練習したりしてかなり技術が上達しますが、学校ではマジックを見せる友達がいません。そこでふと思い立って、ニコニコ生放送(素人がインターネットで自分の番組を生放送出来るサービス)で得意のマジックを披露してみました。そうしたら、マジック生放送のランキングで一気にトップクラスに駆け上がってしまいます。「人気者になった」と面白がって続けていたら、生放送は同時に1,000人が視聴し、ファンによるサイトが自然と作られるなど、ネット上ではちょっとした有名人になりました。

 そんなわけで、勉強も運動もできなかったいじめられっ子の私が能力を発揮できた数少ない場所が、パソコンとネットの世界だったのです。マジックの世界には心惹かれつつも、あくまで趣味の領域を出ず、それでは食べていけないと思っていました。父親の影響を受けて、普通に大学に行き、就職をするという道しか考えられなかったのです。

 高校受験が近づくにつれて父親からの「勉強しろ連絡」は頻度が上がり、勉強はかなり頑張りました。出来ないなりに塾に通い、どうにか学区で2番の進学校に手が届くところまで持っていきます。ところが受験当日、運悪くインフルエンザにかかってしまいます。別室受験で薬を飲みながらフラフラしながら奮闘するも、失敗。まさかの滑り止めの滑り止めで受けた高校に進学することになります。

青春

 高校進学で人間関係はリセットされます。高校デビューではないけれども、いじめだけはないようにしよう。そう意気込んで行ったものの、期待は良い意味で裏切られることになりました。受験の大失敗が思わぬ良い結果になるのです。

 私は、入学式で仲良くなった友達と一緒にテニス部に入ります。ぜんそくが少し良くなっていたのと、テニスは少しだけ父親とやっていたからです。ここから人間関係がオープンになり、いろんな人と関わるようになっていきます。普通の友達とか、普通の部活の上下関係だとか、今までいじめられてほとんど人と関わったことのなかった私にはとても新鮮でした。

 高校では入ったコースが1クラスしかなく、3年間メンバーは一緒です。クラスメートは全員個性があり、いじめなどは一切なし。どの先生も「奇跡のクラスだ」とびっくりするほどでした。グループや派閥のようなものも無く、皆仲がよくて、皆面白いキャラクターです。まるで青春映画を地で行くような日々でした。

 バカなこともやりました。誰かが「よし物理の実験だ」と言い出して、皆で校舎の3階からプッチンプリンを落として、下の人が食べるのにチャレンジしたことがあります。風向きの計算が間違っていたようで、軌道は見事にずれ、結局1個もキャッチできずに中庭をプリンまみれにして怒られます。あとは、夜の22時ぐらいまで教室に残っていたらSECOMのセキュリティを反応させてしまい、警備の人が来てダッシュで逃げたこともあります。次の日に先生が「昨晩、不審者が出たので注意してくださいね」と言うので、クラスの皆でニヤニヤしていました。

 部活はバリバリの運動部でしたから、上下関係のキツさはそれなりにありました。副顧問の先生はスキンヘッドで怖い人だったのですが、冬になると体温と気温の温度差でその頭から湯気が出ます。練習後の反省会は、そのゆでダコのような頭を見ながら笑ってはいけないという我慢大会でした。

 先輩もいい人たちで、キャラが濃かったです。急に「隕石、隕石!」とか言って、テニスボールをボンボンと打ち上げる。練習中に、上からボールが降ってくるわけです。そんな面白い先輩ばかりでした。クラスメートも面白かったのですが、テニス部も面白い人の集まりでした。なお、私の腕前はというと、体力のなさをテクニックでカバーする小賢しいプレーで、東北大会まで出場しました。初戦敗退でしたが。

 そんな明るい高校生活にも、多少のいざこざはありました。それまでいじめられて、まともに人と関わってこなかったせいで、運動部の上下関係というものが私にはサッパリ分かりません。普通はあり得ないと思いますが、先輩の言うことを聞かなかったのです。「やりたくありません」「そんなことして人生に何の意味があるんですか」などと言ってしまう、おそろしく生意気な1年生でした。今自分の講座で話しているようなことを、既にこの頃から言っていたのです。当然ですが、誰にも共感されず、理解されません。運動部ですから、それはボコボコにされます。それでも性格は直りませんでした。

 学校の先生にも文句のようなことを言っていました。何かのときに担任の先生と言い争いになり、「先生もこんなことやりたくてやってるんじゃないのよ」などと言われ、「じゃあ先生辞めればいいじゃん」と返して泣かせてしまったことがあります。どうも思ったことをストレートに言ってしまうので、突き刺さるのです。今ならば、相手との関係性の中で言葉を考えますが、当時はそういうスキルが無く、力が暴走していたように思います。それでも先生も友達もみんないい人で、高校生活は全体的に明るく楽しい思い出となりました。

 学校生活は良くなるものの、親との冷戦は続いていました。高校受験を失敗すると、父親はすぐさま大学受験へとプレッシャーをかけてきました。どうやら息子はバカらしい、と薄々は分かってきたようで、「何でお前はそんなにバカなんだ」と何度も言うようになります。それでも、まだ勉強をと発破をかけられます。高校受験のときよりも、その回数は格段に上がっていました。

 それで、私も大学受験は本気でやろうと思います。高校1、2年はテニス部一色で、家ではアニメを見てパソコンをいじるという日々でしたが、3年になってからは早々に部活を引退し、毎日に仙台駅裏の塾に通いました。学校の授業では受験に対応できません。学校をサボってでも塾に行くという超受験モードで、必死で勉強しました。やはり父の影響は大きく、良い大学に行かなければ人生が終わると信じていました。母親のように苦労をしたくない、という思いもあったと思います。

 しかし、努力の方向性が間違っていたようです。そこそこの国立大学を目指したものの、奮闘むなしく受験は無残に失敗します。言い訳をさせていただくと、私はどちらかというと右脳タイプなのです。右脳型はイメージが得意な代わりに、細かいことをロジカルに覚えるような受験勉強には向きません。本質は記憶していても固有名詞は記憶できなかったのです。因みに今でも記憶は苦手です。そのようなわけで、またも滑り止めの滑り止めの、そのまた滑り止めのような大学に、どうにか引っかかるかたちになりました。

 父親からは「そんなバカな大学に行くぐらいなら浪人しろ!」と言われますが、自分としては勉強は全力でやりきったつもりでした。それでもダメだったんだからもう違うんだ、無理なんだと。これ以上時間をかけても、勉強に向いていないんだから限界がある、と父を説得し、その大学に入るための学費を出してもらいました。

 しかし、自分でも「大学に行く意味があるのだろうか」と疑問に感じ、私は遊び始めます。それでも、高校から比較的遊んでいましたから、遊びの楽しさにも飽きてしまいます。それで、今度はアルバイトを始めました。自分の道は勉強ではなく社会に出る方なのではないか。そんなおぼろげな気持ちからでした。

 最初に働いたのはマジック・バーです。マジックは中学時代から「ニコニコ生放送」で鍛え、技術もパフォーマンスも十分ついてきていました。そこで、仙台にマジック・バーがあるのを見つけ、出演させてもらう代わりに色々手伝いを始めます。その頃、大学生が出していた「イケメン手帳」というフリーペーパーに「イケメン大学生マジシャン」として掲載されます。この頃には私のオタクっぽい見た目が改善され、眼鏡はコンタクトになり、髪の色は明るい茶色になっていたのです。「イケメン手帳」はコンビニなどで何万部も配られ、今度は仙台の繁華街界隈でもちょっとした有名人になり、お客さんからも可愛がられました。

 そして、やはり自信たっぷりで調子に乗ったように見られる生意気な性格でしたから、マジック・バーでも店長に怒られたり、先輩にボコボコに言われたりしながら働きます。「飲食店でお金が稼げるんだ、社会はこんなものか」と何となく小馬鹿にしたように思ってひねくれていました。気づくと、なりたくない親のようになっているから不思議です。

 マジック・バーの店長は他にも事業をいろいろやっている人で、ある日「お前は普通の自分を進んでいたらダメだ。本を読め」と言われます。自分でビジネスをやる道もあるんだと。私はそれまで全く本を読まないで生きてきましたから、本を読むという行為自体が意味不明です。「なんで本を読まなきゃいけないの?」という感じでした。

 嫌々ながらも、「まあ仕方がないか」と、当時仙台駅前のイービーンズの上にあったジュンク堂書店に行き、自己啓発のコーナーでナポレオン・ヒルの『成功哲学』という本を買い、読み始めました。

 ナポレオン・ヒルは、いろいろな有名人に会ってインタビューをした人です。その人の本を読んでいくうちに、それまで私が小学生の頃から頭の中で考えていたことが書かれていることに気づきます。周りの人に言っても「何を言っているんだ」と共感されなかったのに、その本には私が思っていたようなことが書いてありました。「お、これは」と思い、毎日読みました。いつも持ち歩き、夜は枕の横にある、というように。何度も読んでいたら、だんだん意識が変わっていきました。

普通の道を捨てる

 2011年3月。1年で大学に飽きた私は、バイトでもしながらマジックを極めて行こうという軽い気持ちで「大学辞めて、もう働く」と、離れて暮らしながら学費の援助をしてくれていた父に電話をしました。

 なぜそんなことになったかというと、私はナポレオン・ヒルの『成功哲学』に感化され、頭が沸いていたためです。もう一つには、母親は「働いちゃえば?」とノリノリで、仕事先で知り合ったマジック好きの社長さんに会わせてくれたりしていたこともあります。気づくと父親が敷こうとしていた成功のレールから外れていたのです。

 当然、父とは大もめしまして、最後には「そうか、わかった。お前がその道を行くのであれば、金輪際、黒澤家とは関わるな!」と言われました。つまり、「お前が自分の道を行くのであれば関わらないが、言うことを聞き大学に行き続けるのであれば支援する」ということです。父は私を良いほうに育てたかったのでしょう。バカな息子でも、ちゃんと大学を出て、いい会社に入って欲しいという希望がまだ残っていたのだと思います。

 今考えるとそれは愛だったのだと思いますが、当時の私は気づかないで自分の思うように生きようと思いました。私は「わかった、僕は絶縁してでも自分の道を行く」と言って、一人で生きていくことを決断しました。その数日後、タイミング悪くあの日がやってきました。

 2011年3月11日、東日本大震災。

 震災の日、父親からは連絡がありませんでした。私は、「これは本気で親子の縁を切るつもりだな」と思いました。そうは言っても親ですから、「大丈夫か」とメールが来るぐらいは少し期待してしまったわけです。ところが、本当に来ませんでした。いよいよ一人になり、「さあ、やるしかないぞ」と思いました。

 新たな門出は、散々でした。地震でアパートが壊れてしまったため、近所の小学校に避難しますが、その避難所で風邪を移されて4日間高熱に苦しみました。母親は私と同じようにフラフラしていてどこに居るか分かりません。新しく住む場所も見つからず、秋田県の伯父宅に身を寄せることになります。当時、少し辛く感じたことは、付き合い始めたばかりの彼女がいたのですが、いきなり遠距離になってしまったことです。

 秋田に行っても、当時は知識も何もありませんから「生きるため」には働く以外にありませんでした。フリーター時代の始まりです。私は、秋田の居酒屋でバイトを始めました。今の私を知っている人からすると考えられないかもしれませんが、ダシ巻き卵を作ったり、焼き鳥の仕込みをしたりしていました。このとき、同級生は大学2年生です。みんなが大学で学んでいるときに、私はダシ巻き卵を作っていたのです。ただ「なんとなく稼いで、なんとなく食べていければいいや」というだけでした。

 その居酒屋でも、私は超のつく生意気を発揮していました。たとえば手羽先のカラ揚げを運んでいて落としてしまったとき、「すみません、手羽先が落ちました」と言うわけです。店長は「いや、落ちたんじゃないだろ。お前が落としたんだろ!」と怒りますが、私は「なんで怒鳴ってるんだろう。すぐに感情を出すなんておかしい」という感じで真顔で無視しているという有様でした。

 当時の私ともなると自分が生意気だということにようやく気付いていましたが、どうすればいいか分かりませんでした。人の言うことに従うだけの人生も変。とはいえ1人では生きていけない。そのモヤモヤの中で、当時の私は生意気な態度をとることしか出来ませんでした。自分でも自分の性格が嫌いでした。

 伯父宅からその居酒屋までは、川沿いの道を通ります。せせらぎの音を聞きながら、気持よく自転車を走らせて景色を眺めました。3月に転がり込んだ時はまだ枝だった桜並木が花を咲かせ、花の散った後には若葉が芽吹き、青々と茂っていきます。遠くの山々は雪解けで模様を変え、真っ黒だった水田は、緑のじゅうたんに変わります。深呼吸をすると心地よい空気が体に入ってきます。成り行きだけれども、幼少時代の心のオアシスだった大好きな秋田の自然の中で暮らし、バイトでそれなりに食べて行けます。頼れる伯父は不動産を持っていて、アパートの部屋を安く貸してくれるとまで言ってくれます。「ずっとここに居ようかなあ」と思ってしまうほど、私にとって秋田というのは天国のような、竜宮城のような所でした。彼女と月1回しか会えないことを除けば。

 バイト先の居酒屋でまかないを食べているとき、厳しい店長がふと優しい顔つきで「お前はここにいるような人間じゃない」と言ったことを覚えています。なぜかその言葉が心に刺さり、ハッキリと覚えているのです。店長は私のマジックも見ていましたから、何かを感じてポジティブな意味で言ったのでしょう。それを私は「なるほど、自分の居場所は居酒屋じゃなくて、もう少しオシャレな店なんだな」と、おそらくズレて受け取ります。今振り返ると、そういう意味ではなかったように思います。

 勘違いした私は、彼女の待つ仙台に戻り一人暮らしを始めます。行動力だけはあったようです。

 今度のバイト先は、仙台の繁華街、国分町のイタリアンのお店です。居酒屋からおしゃれなダイニングバーにレベルアップしました。このときはとにかく働いていました。夕方の5時から朝の5時まで店に出て、休みは月に2日。それで手取りが22〜23万円でした。12時間働いても、タイムカードには8時間しか記録されていません。「何でこんなに大変なんだ!」と、労働の限界を感じました。

 彼女にもやっとたくさん会えると思ったのに、遠距離だからお互い燃えていたのか、私が精神的に未熟だったのか、なぜか1か月ほどで別れてしまいます。ほとんど彼女のために竜宮城のような秋田から震災の余震がつづく仙台に戻ってきたのに不思議です。しかし今考えてみると、この最初の彼女がいなければ私が仙台に戻ってくることもなかったので、何がどうなるかわからないと思います。小さなことが未来を大きく変えるという神秘を感じないではいられません。

 ダイニングバーの仕事はものすごくできました。当時はずっと飲食店で働いていこうと思って、本を読んだりして経営の勉強をしていました。他の外食チェーンの研究をし、他の店舗を分析してレポートを出したりしていました。先輩や店長クラスでも全く勉強していないので、「なんでこんなことも分からないんだ」とか、「偉そうに命令しやがって」と、またどこかで違和感を感じていました。

 出来る人間ということで私は社長からは可愛がられていましたが、現場の人間関係に馴染めませんでした。たとえば飲み会の作法があります。普通は偉い人や先輩にお酌しますが、私はそういう常識みたいなものに合わせるのが嫌で一切しませんでした。ある飲み会で、全店舗の統括が前に座っていまして、先輩が隣で「お前注げよ」と言います。私は注がずに、真顔で無視します。先輩は怒りますが、統括は先輩を止め「お前な、ちゃんとやればどこに行っても学ぶことはあるんだぞ」と私に諭してきました。私はどうしても合わせることが出来なかったのです。「こんな飲み会なんて時間の無駄だ」とすら思っていました。

 そうしてダイニングバーで働いていたある日、怪しい黒いスーツをきた男三人組が店にやってきます。「怖いなあ」と思っていると、「君、ウチにこないか?」と言われます。要は、ヘッドハンティングです。連れて行かれたのは高級クラブやバー、日本料亭などを経営する大きな会社で、私は役職付きで入社することになりました。21歳、会社員時代の始まりです。

 最初の仕事はバーテンダーでした。オーセンティックバーと言って、一杯千円にチャージ千円というようなちゃんとしたところです。そこに今でも尊敬するバーテンダーがいます。

 全国の賞をいくつも取っている有名な人なのですが、その人からシェイカーの振り方を教わりました。ホワイトレディというカクテルを習ったときのことです。「いいか、まずは何も考えずに振ってみろ」と言われ、はあ、と言ってバーッと振るわけですね。次に、「ゼン、お前、今度はホワイトレディを想像してみろ。美しい白い女性、お前の中にあるホワイトレディをイメージしながらやるんだ」と言います。振る回数は同じでも、そうやって見立ててやると何かが微妙に変わるんですね。実際、振っているのを見ていない第三者に飲ませても、イメージして作ったほうが美味しいと言うのです。それで「センスあるな」と言われました。自分でも「バーテンダー向いてるんじゃないかな」と思い始め、お酒の深さにのめり込んでゆきます。

 このバーには高級クラブが併設されていて、途中から黒服に部署移動になりました。単価が2~3万円とか、高いときには30万円とか行くような、仙台では有数の高級クラブです。

 ここでも、面白い話がたくさんありました。あるときは、誰もが知っているような企業の会長さんが来て、「桜を咲かせていこう」と言って、花瓶に1万円札を植えて帰っていきました。あとは、ドンペリという高額のシャンパンをテーブルに並べる人もいました。今思えばワケが分かりませんが、当時の経験も今に生きているように思います。会長さんや社長さんから経営哲学や成功ストーリーを聞くうちに、私は『成功哲学』は間違いない、と確信を持つようになったのです。

無謀すぎる起業

 会社員時代、給料は21歳にしてはあり得ない額をもらっていましたが、私はそれでも不満でした。人間関係でも年上の部下に妬まれ、社長や上司の機嫌を取るのもバカらしく思っていて、「何かもっと楽に稼げないか」「もっと有名になりたい、大きく成功したい」と思うようになります。

 それで、2013年4月ぐらいからインターネットビジネスの世界に興味を持ち始めます。「これは儲かるぞ」と思って勉強し出しました。ちなみに、私は17歳の頃既にインターネットビジネスの経験が少しだけありました。商品を紹介し、購入者がいると手数料が入るアフィリエイトと呼ばれるものです。それでどのくらい稼げていたかというと、月に100円とか200円ぐらいでした。それで「もうこれで食べていける」と勘違いしてしまったのです。「やっと俺の道を見つけた、起業だ」と。

 また始まったのです。バーテンダーなんて、つまらない労働をしていたらダメだ。フリーランス、かっこいいじゃないか。スタバでノートパソコンを開いて、自由で、誰からも命令されずに。お金持ちになったら幸せになれる!といった感じで「自分にも起業出来る」と勘違いしてゆきます。

 フリーターの頃からも気持ちは既に経営者視点で、「働くのはいつまでもやることじゃない」と思ってはいました。徐々に示唆は感じていました。誰かのふとした言葉や、偶然のめぐり合わせが、私を何かに導いているという感じがしたのです。居酒屋の店長からは「お前はここにいるような人間じゃない」と言われ、ダイニングバーに行ったら「こっちで働きなよ」と高級クラブに呼ばれ、すごい社長・会長が集まる世界を見せられます。これは、「起業してビッグになれ」という神様からのメッセージなのかもしれない、とポジティブに考えていました。順調に、といえるのかどうかは分かりませんが、レールから更に脱線していきました。

 ナポレオン・ヒル『成功哲学』の影響もあり、ついに会社員をやめ自分一人でやろうと決意します。2013年7月のことでした。急に社長に「やめます」と言うと、社長は「あらそう?  あなた、でもそうね。なんかそういう才能とかありそうだし。いいのよ、応援してるわ」と仰っていただけました。実名は出せませんが、この女性の社長もとても有名な方です。どうやらご縁の引きは強かったようです。

 さて、その時の私の資源全ては、銀行口座に5万円、借金が190万円でした。それこそお金儲け系のネットの情報商材やら何やら、色々と買うために消費者金融で作った借金です。その状態で会社を抜け出しました。普通はあり得ないでしょう。しかし、なぜかその時は「絶対に上手くいく」と勘違いし、「まあ、すぐに100万円とか稼げるだろう」という謎の自信を持っていました。起業とすら言えないようなものですが、とにかく自分一人で稼いでいこうと思ったのです。普通は起業というと、資金を集めて、法人化して、と色々準備するものと思いますが、全くそういう発想はありませんでした。ただ急にやめて、「稼げるでしょう」と思っていたのです。

 ですから、起業したときに私が何か持っていたものがあったとすれば、100円、200円稼げるネットビジネスのちょっとした知識だけ。あとはナポレオン・ヒルの『成功哲学』です。他には、技術も実績も、本当に何もありません。飲食店の知識とマジックの知識がありましたが、お金になるほどでもない程度です。コミュニケーション能力も自信がなかったので、誰かを頼る発想もありませんでした。

 会社を辞めたものの何も分からない状態ですから、上手くいくはずもありませんでした。月に100円、200円しか稼げなかったのです。それでも生活をしていかなければなりませんから、借金は膨らむばかりでした。お金がないので、毎日冷凍うどんばかり食べていました。あるときはお金の不安に精神をつぶされそうになり、夜中の街をゾンビのように徘徊していたときもありました。またあるときは生活保護を受けることを考えたり、コンビニのアルバイトを始めることを考えたりもしました。しかし、それはプライドが許しませんでした。前と同じような生活に戻るくらいなら死んだ方がマシだ、と本気で思っていたのです。

 どうにかしなければ、と焦って色々ネットや本で調べた結果、どうやらメンターを持つと良いらしいということが分かります。メンターというのは、先生、師匠です。それが私の成功の秘訣であり、大きな条件、あるいはヒントのようなものだったと思います。誰でも一人でやろうとします。もちろん、一人でやってもいいとは思います。しかし、もし一人で続けていたら私はとんでもなく遠回りをしていたでしょう。

 メンターを探すに当たり、ネットビジネスで一発当てた、というようなギラギラしている人ではなくて、今現在も本当に上手くいっている人の話を聞こうと考えました。偶然儲かった人ではなく、ずっと成功し続けている先生を、と探したのです。

 メンターとの出会いは今でも鮮明に覚えています。2013年の7月21日、セミナーに参加したのがきっかけでした。そのセミナーの講師はメガネをかけていて、だぼだぼのスラックスと白シャツを着ていて、話し方も独特でした。私は昔の自分を見ているような気分になり、「この人は大丈夫だろうか」と最初は不安に思いました。しかし、話を聞いていくうちに引き込まれます。インターネットや本の中に溢れている色々と勝手な意見とは違い、その人の話すことは偏りのない本質的なことでした。それは普遍の真理のようにさえも感じられ、この人に付いていくしかない、と私は確信します。そのセミナーの講師が、私のメンターとなりました。

 私は、情報の仕入先をメンターが話す本質的な情報だけに絞り、他の情報源の一切を遮断しました。テレビも本も捨ててしまい、ネットサーフィンもメールマガジンを読むのも止めました。最初の1年間はまるで出家したかのような修行のような期間となり、本当に一人だけこの先生と決めて学びます。メンターの言うことをひたすら素直に聞いて、愚直に行動しました。そうすると選択肢が自然に減り、迷いがなくなったのです。この頃になると歳上の人に可愛がられるスキルも身につけていたので、メンターの信頼を獲得することもできました。

 メンターには月に1回、個別で会って教わりました。アドバイス料金は一式60万円。190万円の借金は250万円に増えました。私の中には、まだ「何か楽に儲かる秘密があるのではないか」とうっすら期待が残っていましたが、そんなものは最初からなかったということを知ることになります。実際、ノウハウやスキル、つまり儲ける方法というものは、ほとんど教わっていません。

 私が上手くいかなかったのは「知るべき情報を知らないこと」が原因だったことを知ります。私は起業当時、知っているフリをしていたのです。ナポレオン・ヒルの『成功哲学』を読んだぐらいで上手くいくと思っていました。しかし、メンターに会い、自分に色々なことが不足していたことを学びます。情報を「知っている」程度では、上手くいくはずもなかった。「知っている」と「出来る」の間には凄まじい距離があることが分かりました。

 メンターから徹底的に叩き込まれた本当に知るべき情報とは、マインド、つまり成功者の考え方でした。マインドとは行動していくときに、こういう時はこうする、あるいはしない、というような行動指針のことです。すべてを正しく選択すれば、自動的に上手くいきます。ところが、何か選択を間違ってしまうと、うんと遠回りになります。

 メンターから成功者のマインドを学んでいくうちに、私は自分の思考が色々なものに支配されていたことに気づきました。親や色々な人たち、そして目に見えない国や政府、マーケティングなど、様々な支配の影響を受けて自分の可能性を狭めすぎていたことに気づいたのです。しかしメンター曰く、私は影響を受ける量が普通よりも少ないとのことでした。それは私が生意気で、大人の意見を無視してきたからだと思います。生意気さにも良いところがあったのだな、と思いつつも、敵を増やさないように気をつけようとも思いました。

 そんな私でも親の影響は強く受けていました。離れて暮らした後もどこかで依存しており、「このまま依存して支配されていたほうが楽だなあ」という気持ちがあったのです。これではダメだと思い、私は親を精神的に断ち切りました。物理的にも距離を置き、あまり会わないようにしました。

 メンターからは、「普通ではない成功を手にいれるためには、普通ではないダイナミックな行動と思考を持つことが大事である」とも教わりました。私は最初、「普通」の道に進もうとしていました。親の影響や、友達がみんなそうしているという理由で、「普通」の道が幸せになれると思い込まされていました。でも幸か不幸か、私にはそれが出来なかったのです。勉強が苦手で受験に失敗したことや、人間関係に馴染めなかったことなど色々な要因が重なって、多数派の道からドロップアウトしていました。でもそのおかげで、常識に囚われることが少なくなりました。メンターのダイナミックに行動する、という教えはしっくりきました。

小さな成功へ

 当初はアフィリエイトという仲介ビジネスをやろうと思っていましたが、どうも上手くいかないようでした。そこで、ネットビジネスの知識を使って、ネットを使わない商売をしている人にセミナーで教えるということを始めました。具体的には、自分のブログを作ってそこに人を集め、その人にセミナーの案内をしただけでした。やり方は非常にシンプルですが、マインドを会得した結果、お客さんを集めることが出来るようになっていました。

 マインドは不利な状況を乗り越えるのにも役立ちました。当時まだ若干21歳でしたから、セミナー参加者ほとんど全員が自分よりも年上でした。2倍以上の年齢の方も多くいました。若さを不利に感じることもありましたし、自分よりも知識のあるお客さんを相手に話さなければならい場面もありました。そこで役立ったのは、「先に自信を持つ」というマインドでした。メンターからは、「最初はフリでも演技でもいいから堂々と自信があるようにしてください。実力は後から付いてきます」と言われました。

 そこで私が行動に移したのは、毎週セミナーを開いて話すことでした。とにかく「出来る」「やってやる」という気持ちでスキルや経験が足りない部分を補いながら、失敗を恐れずに量稽古を重ねました。「圧倒的な量の行動」をする。これも重要なマインドの1つです。参加者が誰もいないときでも、一人で会場に行って話しました。マインドが変わるたびに、結果も良くなりました。数か月ほど続けたあるときから、急に出来るようになったのです。自信に実力が追いついた瞬間でした。

 メンターからは、お金と健康が直結していることも学びました。健康体でなければ、お金はほとんど入ってこないと言うのです。私もそれまでは、「健康なんてどうでもいいのでは」という人間でしたが、健康法を一つ増やすたびに収入がガクンと上がります。これは面白い、と思うようになりました。その健康法というのは特別なものではなく、水や解毒効果のあるハーブサプリメントを飲んだり、寝具や食事を良くしたりといったようなことです。

 健康を意識したところ、体を全く壊さなくなりました。子供の頃あれほど苦しんだぜんそくも、完治しました。健康法もある程度効果があったのかもしれませんが、最も大きな要因は「病気になる」という概念が私の脳から消えたことです。マインドで体をコントロール出来るようになり、私の体は病気というものを忘れてしまったようです。

 それから対面でビジネスを教えるコンサルティングも行うようになり、起業から5か月で月収は80万円を超えます。一番驚いていたのは私です。学歴も資格もなにもないゼロからでも、ある程度のお金を稼ぐことができるのか、と知りました。少し前まで冷凍うどんしか食べられなかった男が、急に少しリッチな生活を出来るようになったのです。古い考え方を捨てて、勉強や健康にお金を使ってマインドを変えたことが、小さな成功体験に繋がったのだと思います。

 何も持っていないと思っていたスキルについてですが、意外なものがコンサルティングの役に立つことが分かりました。その一つは、ひねくれ者だったことで身についていた、逆を考えるマインドです。あらゆる事象や考え方の逆を考えること、つまり、過去や現在の延長線上の未来ではなく、「今はない何か」が起こるという可能性を残しておくのです。借金が190万円で、銀行には5万円しかなくて、財布には小銭しかないという状況に置かれたときでも、逆の世界ーー何かが起こって月収100万ぐらいすぐに稼げる世界――を想像することができました。もしも私がその可能性すら信じることができずに、自分は絶対に上手くいかないと思っていたらどうでしょうか。きっとメンターに出会うことすらなく、本当に上手くいかないで終わっていたはずです。

 この頃からお客さんの未来がぼんやりと見えるようになりました。今お金が無いとか上手くいかない、どうしようもない、と言う人がいても、「何か」が起こる可能性が見えます。私が奇跡的にメンターを見つけたように、もしかしたら出資しようという人が現れるかもしれないし、いきなり売り上げが伸びるかもしれない。そんな都合のよいことはあり得ない、と思う人もいましたが「こういう風にやっていけば、1年後にはきっとこうなりますよ」とその人の未来を話すと、生き返ったようになり行動が変わります。それで本当に上手くいってしまうのです。楽観するのとは違い、もちろん今ある資源でどうするかを考えることもするのですが、今の状況に囚われずに自由に思考することが良い未来を引き寄せるのだと思いました。

 このような発想が出来るようになったのは、子どもの頃に病弱で、家の中や病院で色々なものを作った経験のおかげもあるかもしれません。折り紙で建築物みたいなものを作ったり、画用紙に変な絵や迷路を描いたり、何もないところから何かを作るということが好きでした。道具がパソコンに変わってからも、ゼロからホームページを作ってみたり、映画を作ったり、今ここに無いものを想像し、それを具現化していました。そういった創作の中で、現実に囚われない抽象的な思考が育まれました。

 更に、学生や会社員という上下の人間関係ではトラブルを頻発させ、足かせにしかならなかった「核心を突いて物事をズバズバと言ってしまう性格」が、コンサルティングを始めて急に活きてきました。「それ、やったらいいじゃないですか」「その人間関係は続ける意味ないですよね」などバッサリ言うと、「あ、そうですね」「スッキリしました」と一瞬で解決してしまうのです。信頼関係さえあれば本心が伝わるものだと分かりました。

 こうなると全てが繋がるもので、マジシャン時代で培われた空間や時間をうまくコントロールする能力も、セミナーやセールスに活きてきます。また、ほとんど役に立たないと思っていた飲食店の知識も抽象思考で結びつけることによって他の業種にもアドバイスが出来るようになりました。人に何かを教えるビジネスは天職だ、と思いました。「才能がない」のではなく「才能に気づいていなかっただけだ」と気づきました。後に、これは自分以外のすべての人にも当てはまることです。才能が全く無い人はいませんでした。

 成功の味を知った私は、ビジネスにさらに没頭するようになりました。このとき、働く理由は「生きるため」から「楽しむため」に変わります。朝起きたら真っ先にメールマガジンやブログの文章を書き、お客さんからのメールを返信し、寝るときと食べるとき以外はビジネスのことを考えていました。それが楽しくて楽しくて仕方なかったのです。

 仕事に集中するため、学生時代の友人とは疎遠になりました。ダイニングバー時代から3年付き合っていた彼女(最初の彼女とは違う、2人目の彼女)とも別れます。そういう人たちに構ってる暇はない、自分にはビジネスがある、当時はそう思っていました。

 抱えていた220万円の借金も難なく完済し、何でも好きなことが出来るようになりました。お客さんは自分で選べますから、嫌な人間とは付き合う必要もありません。お金も次々と入ってきますから、スタバどころか高級な珈琲店や高額のホテルのラウンジに毎日のように陣取ってノートパソコンを広げていました。大きなテレビやホームシアター用のスピーカー、高級時計など欲しかったものも全て買いました。完全に金銭感覚がマヒして千円、1万円ぐらいは小銭という感覚になり、財布の中身の金額を数えることもなくなります。そうして、「やっとあの高級クラブで出会った社長や成功者たちの仲間入りができた」と勘違いしていました。

 マインドもある意味で磨きがかかり、他人に影響を与えることも容易に出来るようになっていました。30分ぐらい話すだけで、数十万円から数百万円のコンサルティング契約を面白いように成約できました。成約率は8割以上はあったでしょうか。もちろんお客さんになった人はしっかりフォローしていました。メルマガの読者数は7000人を超え、他のビジネスも自然とうまくいくようになり、年収は最大で3000万円近くになっていました。このとき2014年、22歳でした。

 ここまで見ると成功物語に思えるかもしれませんが、ここからまた大きな転落を経験することになります。

クライシス

 自分のためにやっていくうちに、何か違和感を感じるようになりました。「こんなに稼いで楽しいのに、どこか納得がいかない。どうしてだろう」そんなことを考えているうちに、また飽きがやってきます。これしかないと思っていたビジネスの道が、何もかも捨てて没頭できた好きな仕事が、もうつまらなくなってしまったのです。

 何十万円、何百万円という入金があっても、嬉しいとも何とも感じなくなりました。楽しいことをやっているけれど、それが何だろう。楽しさを追求した先に何があるのだろう。自分だけが儲かって、何がいいんだろう。自分がいくら稼いでも、いっこうに幸福感が伴わないのはなぜだ。夢に見た自由とはこんなものだったのか。自分はいてもいなくても同じだ。などと考えるようになり、世界から切り離されたような孤独感に襲われます。

 そして、「自分は何のために仕事をしているのだろう。何のために生きているのだろう」と悩むようになりました。表向きは普通にセミナーを開いてコンサルをして、と変わりなく動き回りながら、自宅に帰った瞬間、鬱々と無気力に過ごすという日々が続きます。ひたすら食べて、寝て、ネガティブな妄想をし、延々とアニメを見るといった感じで、堕落していきました。世界が灰色に見えました。メンターは海外に行ってしまい、頼ることができませんでした。頼れなかった理由は、やる気がない自分を見られるのが嫌だったから、というのもあります。

 お金を稼げば自由で幸せになれる、その神話はガラガラと崩れ落ちていきました。それが2014年の冬、どん底まで落ちた時期でした。そんな状態は3か月ほど続きます。あの冬のことは、今でも忘れません。マイナスの出来事は何故か重なるもので、祖父が亡くなったり、批判的なメッセージが送られてきたり、うまくいかないビジネスがでてきたり、健康法をやってるのに体調を崩したり、信頼されなくなったりと、短い間に不幸といえる出来事が連発し、精神がさらに病んでいきました。

 今思い返すと、この頃は自分の器以上にお金を稼いでしまい、受け取れるキャパシティを超えてしまったのだと思います。宝くじで何億円という現金を急に手に入れた人の多くが人生を狂わせ破滅していくように、私は自分の器以上の大金を手にして抜け殻のようになっていました。何をやっても結局はうまくいかなくなる自分を見て、このときは「本当にすべてをやめてしまおうか」と思いました。

 そんな状況から抜け出すきっかけとなった出来事がありました。精神的などん底の最中、お客さんからいただいたメールをふとチェックしていたときのことです。いくつかのメールを読んでいたら「自信が持てるようになり、人生が変わりました」「お金では買えないものを教わりました」「おかげさまで売り上げが増え、商売を畳まずに済みました」といった感謝の声が目に飛び込んできました。落ち込む前まではそうした感謝メールを見てもどうとも思わなかったのに、このときはあたたかい涙が頬を流れました。泣いたのはいつ以来だろう、と思いました。泣き終わったとき、私の心は不思議と浄化されたようになり、軽く、明るくなっていました。

 なぜか絶縁されていた父親に連絡がしたくなって、思い切って電話をしました。コールするプルル、プルルという音を聞きながら私の手は震えていました。突然連絡して繋がるだろうかと思ったところでコール音が止まり「どうした?」という父の声が聞こえてきました。声を聞いたのは4年ぶりです。私は今度は鼻水を垂らして号泣しながら「ありがとう、ありがとう」と繰り返していました。現実を見ると問題は山積みでしたが、自分の気持ちの中で何かが変わり、行動を始めるエネルギーが湧いてきました。余談ですが、それ以来、父親とはときどき飲みに出かけるようになりました。

大転換

 気持ちが変わると現実も変わるもので、また新たなメンターがタイミング良く現れます。2015年の1月、たまたま読んでいたメルマガで、あるオンライン講座(インターネットで受けられる授業)が始まることを知ります。講師はメルマガの発信者とは別の人物で、どうやら雲の上のすごい人らしく、何かピンと来て直感で参加することにしました。実際に講座に参加してみると本当にすごい人だとすぐに分かりました。ここには詳しくは書けないのですが「神の力」を使える方で、多くの人が知っている有名人や大企業や老舗企業の経営者の相談に乗っている方でした。

 その講座の一番最初は、クライシス、まさに当時の私のように「自分を見失って崩壊したときのこと」の説明でした。講座に参加する前の案内にそんな内容は一切書かれていなかったにも関わらずです。「これは自分のことか?」とびっくりしますが、なんと、その講座の参加者全員がちょうどそのときクライシスに陥っていた、というオチがありました。

 講座の話を聞いているうちに気持ちが上向きになり、私は立ち直っていきました。悩んでいたことは、退化ではなくむしろ前進しているということや、色々と取り組んできたからこそ問題が起こり、クライシスが来ることを知ります。この世の終わりだと思っていたけれども、それも人生の大きな流れの中の一つの事象であり、必要なものだったことが分かりました。具体的には、今回のクライシスが「人を大事にすること」を私に教えてくれました。クライシスが起きて落ち込んだおかげで、取り返しがつかないトラブルが起きる前に大切なことに気づけたのです。

 私はその前まで、自分の願いを叶えるために生きていました。「生きたい」という思いで身を粉にして働いたフリーター時代、人間関係でがんじがらめになった会社員時代を経て起業し、今度は「好きなことして楽しみたい」と思ってそれも達成しました。こうした「やりたいこと」を中心に目標を達成していく願望成就の道について、私は目指すべきゴールだと信じていました。ところが新しいメンターによると、願望成就は人間が成熟するための準備期間にすぎないそうでした。また、その願望成就もできずに亡くなってしまう人が大半であることも知りました。

 メンターから教わったことを簡単にまとめると以下のようになります。願望成就が悪いわけではないが、それだけに囚われているとエネルギー切れになってしまう。もっと大事なのは自分ができることを丁寧に真剣にやること。自分が受け取ってきたものを次に渡していくこと。自分という枠を超えて、感謝の気持ちで人様のお役に立つこと。

 私は2人目のメンターに会うまで、貢献や利他といったことは大事だと理解していながらも、心の奥深くでは綺麗事だと思っていました。それよりも自分がマインドやスキルを身に付けて、やりたいことをやるのが正義だと思っていたのです。私が最初のメンターから学んだマインドは、たしかにパワフルでした。しかし、包丁が人を刺す道具にも美味しい料理を作る道具にもなるように、マインドは使い方を誤ると危険であることも体験してきました。

 学んでいくうちに当時の私は世の中に存在するマインド論、多くの自己啓発は「成功」という視点に偏りがちだと気づきました。成功とは、周りよりも「上に立つこと」とも言えます。しかし、人に勝利した結果待っているのは精神的な孤独です。たとえお金があっても、たとえ自由な時間があっても、誰かと一緒に居たとしても、心からは楽しめない状況がやってくる可能性があるのです。幸福と成功は関係はあるものの、それは微々たるものです。もちろんマインドが不要というわけではありません。マインドはパワーであり、それはマイナスにもプラスにも使えます。それが良い方向に使われるかは、使用者の人間性によります。成功が悪なのではなく、人間性を成長させながらも成功を目指すことが重要であると気付いたのです。

 以上のような気づきの結果、私の内側でも、厳しさやダイナミックさという男性的な要素と、愛や優しさという女性的な要素の調和がとれてきました。あるときは全身の細胞が生まれ変わるかのような大きなパラダイムシフトが起きました。まるで別人になったような感覚で、それまでの考え方が一気に変わったのです。

 新しいメンターから得た一番の気づきは、「自分も周りの人も、同時に豊かになっていける生き方もあること」です。以前の私は、自分が成功しようと思ったらどこかで周りを傷つけて犠牲にしたり、逆に自己犠牲をしたり、我慢しなければならないと思っていました。またあるときは「働くのは悪で、さっさと金持ちになってリタイアして自由に暮らそう」と思っていたこともありました。しかし、真に貢献の意味を理解し始めたとき、「ただ人のために動けばいい」というシンプルさに気づきました。働くことが幸福だと思えたとき、燃え尽きたようになっていた私の心に静かな青い火が灯り、じわじわとエネルギーが戻ってくるのを感じました。

 私は、この頃から精神世界や思想、哲学、宗教の勉強と修行に、狂ったように没頭していきます。学んだり修行したりするだけなく、数千人の人の相談に乗って、知識が現実で使えるかどうかを実験していきました。そうしていくうちに、東西の色々な教えの中に「本当の自分」が登場することが分かります。「真我」とか「魂」、「神」、「空」、「ワンネス」、「それ」など呼び名は様々で、それぞれ表面的な意味は違っても深いところでは繋がっていて、どうやらその「本当の自分」は成長と貢献を望んでいるらしい。「本当の自分」との一体化が精神の自由に他ならない、と実感していきます。

 こうした考え方は世の中ではスピリチュアルと呼ばれている部分です。スピリチュアルというと、以前の私は胡散臭いとか怪しいとか非現実的だと思っていました。もちろん真実と見せかけた偽物の情報が現実に多く存在していたり、人の手によって力を失った教えも多くあったりします。むしろスピリチュアルを学んでいなくてもスピリチュアルの本質を会得していて人間性が深い人もいます。また、現代では情報も増えて何が真実か分かりにくくなっています。少なくとも今の時点では「スピリチュアル」という言葉は人によって意味が大きく異なってしまうので、私はこの言葉があまり好きではありません。

 美しい景色。素晴らしい作品。あたたかい言葉。優しい気持ち。そうしたシンプルなところにスピリチュアルの本質が隠されているのだと思います。

 昔はスピリチュアルという言葉を知らなかっただけで、スピリチュアルな気づきは私が小学生の頃に既にありました。しかし、親や世間の影響を受けて「いじめられないために」「社会に馴染むために」頑張っていたことが、実は自分の本質を消し、能力を抑圧していたことに気づいてゆきます。もちろん、その「能力が発動できなかった期間」も成長に必要なものだったのだ、と今でこそ思います。

 過去や古い考えの枠組み、パラダイムを捨てるのは簡単ではありませんでした。しかし、ひとたび手放してしまえば今の自分に必要な人や物、お金、情報などのリソースが向こうからやってくることを、私は既に体験していました。大学を辞めたときも、会社員を辞めたときも、今まで積み上げてきたものを捨てることになりましたが、そのたびに新たな出会いやチャンスがやってきました。執着を手放して、変化する許可を自分に与えたときに奇跡が起こる。そう確信していました。

 そして、2015年の春。仕事そのものはアドバイス業で変わりありませんでしたが、そのやり方が大幅に変わりました。ブログやメルマガなどの内容を一新し、自分の稼ぎよりも、人との関わりや自分の信念を優先するようになりました。

 また、この頃から「自由」という言葉に含まれる情報量が一気に増えました。最初は「お金を稼いで自由になってもらいたい」という物質的なものでした。今度はそれだけではなく、本当の自分の人生を生きてほしい、精神的にも自由になってもらいたいと、精神的なものが加わりました。私自身が成功を目指して苦労したため、多くの人に「お金を稼ぐだけでは真に自由になれないこと」を気づいて欲しいと思ったのです。とにかく、人のためになるにはどうしたらいいかを考え、自分が好きなことに固執せずに人から求められることをやるようになりました。

 そうしたら、お客さんの反応がみるみる変わりました。もちろん私の考えが変わったことによって離れていってしまった方々も多くいましたが、より深く信頼してくださるお客さんが出てくるようになったり、新たにやる気のある人が集まるようになったりしました。以前の私は、正直なところ、お客さんを信者化させていました。しかし、依存と支配の関係は長く続かないこともまた学びました。この頃からは本当の家族のようにお客さんに接しようと決めました。結果、お客さんも私を盲信するのではなく、自分から成長しようと思ってくださるようになりました。

真の仲間

 あるとき、セミナー講師仲間と受講者の飲み会で、合宿がしたいという話になり、グループコンサル合宿を開きました。そこに、少し様子がおかしい人が混じってきます。「あるスピリチュアルの先生に、もっとお金を払いたい。そのためにお金を儲けたい」と相談してくるのですが、その目は完全に座っています。その後、弟子入りして洗脳が解け、今も本当の自分を探す修行をしているのが高橋久美氏です。

 さらに秋口には、お客さんや熱心なセミナー受講生に向けた連続講座が始まります。非常に熱意のある人たちが集まってくれ、私が新しいメンターから学び、自ら経験してきた知識やマインドの全てを承継するつもりで伝えました。その時の参加者の中には、西村敏氏をはじめ自分のビジネスに応用してどんどん成功している人が何人もいます。

 そうして求められるまま何でもやってきた結果、よく「何をやってるんですか?」と聞かれるようになりました。私自身も「何をやってるんだろうと思われるだろうなあ」と思いながらやっていました。セミナー講師かというと、そうとも言えますし、セラピストかというと、そんなような気もしました。要は、いろんな支配や影響を受けて魂が不自由になっている人の目を覚まし、精神を浄化し、人生が良くなるように手助け出来ることならば何でもしたくなっていたのです。セミナーを開いたり情報発信をしたりする活動は、そういった「本当の意味で自由な人」を増やしたい、という思いで行うようになりました。

 仕事の量は、それまでの人生で一番多くなりました。コミュニティメンバーやお客さんと話していると、1日に10時間以上になるのが2週間も続くとか、何もしていないようなときも頭の中では仕事のことをいろいろと思考していますから、1日に15時間以上は働いているようなものです。それでも飽きることも、疲れることも知らずに、全力で働いていられ、しかも幸福を感じるようになりました。以前は好きなことしかやりたくないと思っていたのに、嫌いで大変なことでもお客さんのためならやろう、と思えるようになりました。

 それが出来るのはきっと、「本当の自分」の進みたがる方向に向かっているからだと思います。もはや人からどう見られるとか、認められたいといったようなプライドも恥も関係なくなりました。ただただ、周りの人やまだ見ぬ誰か、そして世の中を良くするという大きな理想を掲げてそれを叶えようと全力を尽くしているだけで、自然とすべての物事がうまくいくようになりました。

魂の衝動のままに

 2016年。年明けに東京でその2人目のメンターに会いました。1年前にオンライン講座を受けた時には、まさか現実で会えるなんて思ってもいませんでした。メンターからエネルギーを受けて、私自身ももっと大きく成長しなければと決意を新たにしました。

 お金の使い道についてお話ししますと、あまり自分のことには使わないようになりました。私は今、車もテレビも冷蔵庫も持っていませんし、本当に小さいアパートに住んでいて、普通の生活をしています。不思議なことに、今よりもお金がなかった会社員時代のほうが無駄に色々と買って、物をたくさん持っていました。今思うと、そんなに必要なかったのです。自分が裕福になろうとか、認められたい、何か欲しいというものはほとんどありません。元から物欲のない子どもでしたが、色々と外からの影響を受けて欲しくなってしまったのが、本来の状態に戻ったような気がしています。

 私がどこでお金を使うかというと、今は世の中のためにと考えています。何かというと、今あなたに情報をお伝えしているように、出会う機会を作るためにお金を使いたいと考えています。セミナーや情報発信を通じて、自由な人を増やしたい。私が遠回りして苦労したことに、多くの人にもっと早く気づいてもらいたい。他には、みんなが集まれるようなスペースを建てたいとも思っています。

 2017年になると私はメンターの講座を卒業しました。そのメンターに予言されていたとおり、今はマーケティングやビジネスを教えることはほぼなくなり、精神世界を中心に伝えるようになりました。周りからはまったく別のことを始めたように見えたかもしれませんが、すべてが『見えない世界を扱って、魂が震えるレベルの感動を与える』という使命によって繋がったのです。

 マジックもバーテンダーの技術も、落ち込んだときに熱中したアニメも、精神世界も、そしてネットビジネスの経験も、すべてのことが知恵を世の中に広めるために役立ちました。そうか、このためにすべてをやっていたのか!と気づいたときは胸が熱くなり鳥肌が立ちました。

 自分のことで悩むことは無くなったので、今後はあたたかい精神の人を世の中に増やしていきたいと考えています。私たち人間は技術の革新を起こしてきましたが、その大きな力を扱う人間自身が進化しなければ、この世界は崩壊していくだろう、と思ったのです。私は「精神性の革新(スピリチュアル・イノベーション)」が必要であると思っています。

 もちろん私は自分が世界を救えるとまでは思っていません。私ひとりの力だけではどうにもできない、というのは今まで学んできたことでもあります。しかし、個人の精神性が上がれば、その周りの家族が笑顔になるかもしれませんし、その家族が笑顔になれば、会社の笑顔が増えるかもしれませんし、会社に笑顔が増えれば、社会に笑顔が増えていくかもしれません。周りの人に与えた良い影響は、さらにその人の家族や色々な人に波及し、最後は世界に一体感をもたらし、平和に近づいていくであろうと感じています。

あとがき

 私の過去を振り返ると、身に降りかかる良いことや悪いこと、出会った人、小さな出来事の全てに意味がありました。子どもの頃の病気や、家庭の崩壊、辛かったいじめでさえ、今の私を形作る重要なパーツです。もしもあれがなかったとしたら、平和なままで元気に育ち、そこそこの大学に進んでどこか会社に就職をして、という無難な道を歩んでいたかもしれません。

 私は、同級生が大学2年生のときにフリーター、3年生のときには会社員として「食べるために働く」ことを経験しました。皆が大学4年生のときには起業し、「自分のために働く」という楽しさを知り、やがてその虚しさも味わいました。それらは失敗でも遠回りでもなく、必ず通らなければならない人生のステージだったのだと思います。そこを乗り越えたからこそ、今ようやく「人のため、世のため」を考えられるステージに到達できました。どこか一つでも、ステージを飛ばすことはできませんでした。

 ですから、自分の生活がままならない人は、まずは「食べていくため」で良いと思います。食べられるようになれば、「もっと楽しいことがしたい」とか「好きなことをやろう」とか、自然と自分のことを考えられるようになります。その願望成就の道も、まずは心ゆくまで追求して構いません。お金儲けにチャレンジしても良いし、趣味を極めても良いでしょう。ただ、そこが最終的なゴールではなく、いつか「人のため」のステージに行くのだ、ということを忘れなければ大丈夫です。飽きがきてズドンと落ち込んだときに、「おや、次のステージが来たな」くらいに思っていただけたらなと思います。重要なことは、何をするかよりも、何をしていても楽しく、ダイナミックかつクレイジーにやりきることです。

 人の一生とは1つずつステージを上げて「本当の自分」を探していくための終わりなき旅なのではないでしょうか。私たちは、そのステージを登ろうとするたびに苦難に出会って、のたうち回ります。悶えながらも乗り越えて進もうとすることで精神性が鍛えられ、一歩ずつ本質に近づいてゆくように感じます。私も日々、前に進もうと足掻いています。そうして、人は過去の辛さの分だけ強くなれます。闇も引き連れて進んでゆけば、全ての出来事がきっと私たちを応援してくれることでしょう。

 最後に、あなたとあなたの周りの方々の幸福と心の平安を祈りつつ。知識を超越して、日常の中から「本当の自分」が体感されますように。

黒澤全

2016年2月22日公開
2017年7月16日加筆